サンプル投稿2

 この病棟には患者が階上と階下で恰度十人いたけれど、ここに出て来るのは私を入れて四人であった。それは私と美校を出て朝鮮の中等学校の教師をしている青木雄麗とマダム丘子――病室の入口には白い字で「広沢丘子」と書いてあったけれど、皆んなマダム、マダムと呼んでいた。だが恐らく彼女の良人は結核がイヤなのであろう、既つて一度もここに尋ねては来なかった――と、も一人女学校を出たばかりだという諸口君江の四人であった。

 最近豪華版とか、限定版とか称する書籍を見る。少い部数で、一々本の番号を付し、非常に立派な装幀で、一見洵に豪華なものである。限られた少数の富裕な見手を目当てにしたものだろう。私達から見れば此上なく意味のないもので、読んで見て魂消る場合が屡々ある。内容と形式とが全然一致しないのである。何々文庫と称する十銭二十銭のものにどれだけ劣るか分らない。
 見た眼がいいものを――という気持の出版当事者も悪いが、又装幀を引受けた美術家なるものもあまりに盲目的である。芸術的良心を痲痺させてしまって出版業者に動員されて、てんから恥ない所がありはすまいか、出版当事者美術家ともに大いに良心を覚醒させる要があろう。
 次にさしずめ世界文化年表とでも称する年表が欲しい。広い文化の分野でせまい分科的にではあるかも知れないが綜合的な世界の文化を縦に貫ぬいた年表が欲しいのである。困難な仕事であろうが、文化貢献の為乗り出して下さる出版社がないものだろうか。

 所長の発表が終ると、文字通り急霰のような拍手がまき起った。
 その中でただ一人木曾礼二郎だけが、呆然とした顔つきで、拍手をするでもなく、頬をほころばすでもなく、気抜けのように突立っていた。
「おい、木曾君――」
 ぽんと肩を叩かれて、はっと気がつくと、すでに研究所の中庭にあつめられていた所員たちの姿は、ほとんど去りかけていた。勿論、いつの間にか壇上の老所長の姿も消えてしまっている。
「どうしたんだ、ばかにぼんやりしてるじゃないか」
「……いやあ」
「はっは、腐ってるんだな、わかるよ、腐るな腐るな」
「いやあ、何も……」
「ふっふっふ、いいじゃないか、希望を持て希望を――、何も今度ぽっきりのことじゃないんだからな、きっと俺たちも行くようになるぜ」

 裏のくぬぎ林のあっちをゴーゴーと二番の上りが通った。
 とめはいそいで自分のたべた飯茶碗を流しの小桶の中へつけると、野良着へ手拭をしっかりかぶって、土間から自転車をひき出した。
「もう行くか」
「ああ」
 炉ぶちのむしろから、年はそうよってないのに腰のかがんだ親父の市次が立って来て、心配そうに云った。
「――めったと皆の衆の前さ、目え立つようなところさツン出るでねえゾ、ええか!」
 市次は組合へ入ってる癖に引こみ思案で、小作争議の応援になんぞにはどうしても出たがらない。俺ア年だで、皆の衆やってくんろと尻ごみするのだ。マンノーをくくりつけた自転車を往還まで押し出すと、とめはペダルへ片足かけヒラリと身軽くとびのった。

 目醒めて来たとは、ブラボー! 何と目醒めた爺さんであることよ。私は思わず破顔しその予想もしない斬新な表現で一層照された二人の学生の近代人的神経質さにも微笑した。然し――私は堅い三等のベンチの上で揺られながら考えた。この四角い帽子をいただいた二つの頭は、果して新しき老農夫を満足し啓蒙するだけの知識をもっていながら、彼等が余りエレガントであるために只ああやって蒼白き微笑のみで答えたのか。または、大きな声では云えないが、頭はただきれいに分けた髪の毛の台に過ぎないので、ああやって無気力な薄笑いを反射させただけなのか……
 学生からまとまった数言をききたがっていた農夫も、やがて同じような謎に捕われたと見え、口を利くのをやめた。彼は窓の方へ再び向きなおった。刻み目の粗い田舎の顔の上へ、車窓をとび過る若葉照りが初夏らしく映った。

「何しろここまで来ると空気以外に褒めもんがないんですからね」
「まあ、そういうなよ、今年は十五年ぶりで火星が近づいているんだ、この空気の澄んでいる高原は、火星観測には持って来いなんだよ」
「そりゃそうかも知れんけど……、その辺を一寸歩いて見ませんか、星が出るまでにはまだ間がありますよ」
「うん……」