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 今、こうして瞼を閉じても、その搗きたてのお餅のようなふっくりとした太腿へ、真黒なガーターが、力強く喰込んでいるその美しさに、吾れ知らず鼓動が高まるのです。
 長ずるに従って、次第に瞼の裏には、様々な美しい肉体の粋が、あるいはくびれ、或はすんなりと伸びて、数を増し、追っても、払っても、なよなよと蠢めき、薄く瞼を閉じるとそれらは、青空一杯に、白い雲となるのでした。

 斜向いの座席に、一人がっしりした骨組みの五十ばかりの農夫が居睡りをしていたが、宇都宮で目を醒した。ステイションの名を呼ぶ声や、乗客のざわめきで、眠りを醒されたという工合だ。窓の方を向いて窮屈に胡座をくんでいた脚を下駄の上におろしながら、精力的な伸びをした。二人づれの国学院の学生がその時入って来て、座席を物色した。車内は九分通り満員だ。二人はその農夫の前えに並んでかけた。
 農夫はやがて列車が動き出すと、学生に話しかけた。

 毎日毎日、気がくさくさするような霖雨が、灰色の空からまるで小糠のように降り罩めている梅雨時の夜明けでした。丁度宿直だった私は、寝呆け眼で朝の一番電車を見送って、やれやれと思いながら、先輩であり同時に同僚である吉村君と、ぽつぽつ帰り支度にかかろうかと漸く白みかけた薄墨の中に胡粉を溶かしたような梅雨の東空を、詰所の汗の浮いた、ガラス戸越しに見詰めていた時でした。思い出したように壁掛電話がチリン、チリン、チリチリンと呼出しを送って来たのです。そばにいた吉村君が直ぐ受話器を外しましたが
『え、何、ポンコツか――ふーん、どこに。うん、うん、行こう』
 といってガチャリと電話を切って
『おい、ポンコツだとよ、今の、番が見つけたっていうから終電車にやられたらしいナ』

「ジャン・クリストフ」の世界で、それぞれの女性たちは、その優れた美しさや知性や熱情にかかわらず、これまでどおり、社会関係の中では男に対する女としての角度からよろこび、悲しみ、波瀾にもまれている。彼女たちはジャン・クリストフの感性から働きかけるだけの存在であった。アンネットにおいてはロマン・ロランは男と同様な人間であり、人間の男が男であるとおりに、人間の女が女である女らしさをうち出そうとした。社会関係に対して動的な女性、単に習俗にしたがうよりも自分にとって人生の原則と感じられる動機によって行為を選択して生きる女性。ロマン・ロランは、アンネットによって、最も現代史を積極的に生きとおす可能をもった女性の発端の歩みを示したと思われる。

 六月の爽やかな暁風が、私の微動もしない頬を撫た。私はサッキから眼を覚ましているのである。
 この湘南の「海浜サナトリウム」の全景は、しずしずと今、初夏の光芒の中に、露出されようとしている。
 耳を、ジーッと澄ましても、何んの音もしない。向うの崖に亭々と聳える松の枝は、無言でゆれている。黄ばんだ白絹のカーテンはまるで立登るけむりか海草のように、ゆったりと、これまた音もなく朝風と戯れている。ただ一つ、あたり一面に、豊満な光線がサンサンと降るような音が聴えるだけだ。
 真白な天井・壁、真白なベッド、真白な影を写したテラテラした床……。
(寝覚めの、溜らない懶さ……)
 いつの間にか、又、瞼が合わさると、一年中開けっぱなしの窓から森を、あの深い森を、ずーっと分けて行くような匂いがした。

 都会が、いろいろな特色をもっている。面白いことと思う。京都などこれまでちっとも知らず、近頃たまに来て、まだ馴れないよその人の目で見ると、感じ方が、その土地で暮している者とは違う。京都人の日常生活の細やかさ、手奇麗さなど、風景でも大ざっぱで野趣のある関東から来た人は、誰でも賞め、価値を認める。全く或る点よい。だが、其なら京都の人は本当に情趣豊かな風流人かというと、さて、と思う。面白いことに、生粋の京都生れ、京都暮しの女性を見ていると、彼女は本当によい色彩で着物を選び、家の隅々まできちんと行き届いた生活ぶりでやっているが、しんに迫って見ると、ただ伝統の力で自然にそうやっているというだけのところがあるらしい。電車にのって見て受ける第一の印象が東京などと違う。女の人は皆よそゆきで、とりすましている。東京のように、活動を運搬している激しさがない。外へ出るに、今頃は此服装でなければ見っともない。そういうことを、女のひとは念頭に置かないで暮せないらしい。外見は、物静で、ちんまりしているけれど、内部で、そういう些事に労する神経は並大抵でないらしい。なかなか窮屈なことと思う。