若杉鳥子の小説

 冷氣は酢のやうに彼女の體を浸してゐた。
 硝子戸の外には秋風が吹いて、木の葉が水底の魚のやうに、さむ/″\と光つてゐた。
 此處はどこなのかしら――彼女は起き上らうと意識の中では藻掻いたが、體は自由にならなかつた。
 西の空はいま、血みどろな沼のやうに、まつ紅な夕やけに爛れてゐた。K夫人は立つて西窓のカーテンを引いた。
 病人は不安な眼を室内に漂はしてゐたが、何か物をいひたさうに、K夫人の動く方を眼で追つてゐた。
『あなたはいま重態なんですから、お氣をおちつけて、靜かにしてゐなければいけませんのよ、此處? 此處ですか……』
 K夫人はいひ澁つたが、氣の毒さうに病人を見ていふのだつた。
『此處は、御存じでせう、ほら××村のH病院ですのよ。それは宗教の病院になんか、あなたをお入れしたくなかつたんですけれど、差し迫つた事ではあるし、經濟的にどうにもならなかつたもんですからね、全く仕方のないことでした。』
 病人はK夫人の顏の下で、小兒のやうに顎で頷いて見せた。上の方へ一束にした髮が、彼女を一層少女らしく痛々しく見せた。

『みどりさんのあのお客は、大へんな大泥棒だって、ああこわい、こわい。』
 本人のみどりよりも朋輩達が、彼の入って来る顔を見ると、皆一所に寄り添うようにして、露骨に恐怖と憎悪とを表した。
 そういう事に敏感ででもあろう彼は、H楼全体の自分への仕向けが、癪に障っている処へ肝心のみどりは、何時も病気だと称して姿を匿してしまうようになった。
 客の素性を知ってしまった今は、その客の噂を耳にするさえ悪寒がしたそうだ。
 昔からよくある慣いの事ではあるが、生来残忍な自暴自棄の彼だから、忽ち復讐心に燃えずにはいられなかった。
 ある日の夕方、みどりは赤い長襦袢一つで、お風呂から上がって女部屋の鏡台に向かっていた。
 綺麗に掃除がすんでお客の上がる入り口の閾の上にピラミッド式の盛り塩が、三つばかり人待ち顔に並んでいた。
 其処からツカツカと入って来たのは彼だった。H楼の人達は、彼を見るなりギクッとして互いに狼狽したけれども、もうみどりを押し隠すひまも何もなかった。
 櫛を持って前髪をかいていたみどりは背後から、

 私が故郷の街から筑波山を見て過ごした月日は随分と永いことだった。
 その麓には筑波根詩人といわれている横瀬夜雨氏がいた。故長塚節氏がいた。
 そこから五六里の距離にある故郷枕香の里(古名)の青年間にも文学熱が盛んだった。私もいつかそのお仲間に入って詩や歌を作るようになった。そしてその頃河井醉茗氏の主宰していた女子文壇に投書していた。それを機会に横瀬氏から幼稚な汚い原稿を添削して戴いたり、質疑に対して通信教授をして戴いた。その頃夜雨氏には多くの女のお弟子があった。女子文壇は今の文壇に多くの女性作家を送った。その頃の文壇には、自然主義の運動が勃興していた――私はそうした少女時代の追想に耽りながら、結城の街から自動車に揺られていた。
 私がまあ横瀬夜雨氏を訪ねたいと思っていたのは何という永い間の宿望だったろう。
 少女時代に東京へ出てしまって、時々国へ帰りはしたが東京にいる間は自由なお転婆な自分であっても、一度故郷へ足を踏み入れると、真綿で頸を締められるような老人連の愛情のとりこになって、周囲から降るような干渉を浴び、一歩も他へ出られない中に、いつでも予定の日数が尽きてしまう。